キミの背中

 ジョンがインフルエンザに罹り、5日間寝込むという事態が発生した。
 例によって昼過ぎに目を覚ましたシャーロックが、何か口に入れる物はないかとキッチンを覗き、隅でうずくまるジョンを見つけたのだ。

 全くなんだってこんなところで…と呟きながら近寄り、その身体に触れた瞬間、シャーロックは彼の身に何が起きたか理解し、そっと揺り起こす。
「ジョン、こんなところで寝るな。大丈夫か、ジョン。」
「…ん…。あれ、シャーロック? なんだ、もう起きたのか。朝食食べるだろ、ちょっと待ってろ今…。」
 言いながら立ち上がりかけたジョンの肩を支えてやりながら、シャーロックが小さく溜息をつく。案の定、再び膝から崩れ落ちたジョンの身体を彼は両手で受け止めた。
「ごめん、シャーロック。何でだか、今朝は眩暈がひどいんだ…。」
 シャーロックの腕の中で、ジョンは何度も頭を振った。
「当然だろうなジョン。君は高熱を出してる。」
「何…熱だって…? どうりで起きた時身体が重いと…おい、何するんだシャーロック?」
 シャーロックはジョンの身体をひょいと担ぐと居間を横切り、狭い階段を器用に駆け上がる。扉のあいていたジョンの寝室に侵入し、ベッドの上に彼の体をゆっくりと横たえた。 「君は医者のくせに、自分の身体には無頓着だな。今別の医者を呼ぶから、待ってる間に水分を補給しろ。ミルクティーでいいか?」

 ジョンは甲斐甲斐しく毛布を掛けてくれるシャーロックの顔をまじまじと見つめてしまった。
「君が淹れてくれるのか?」
「他に誰がいる。レストレードでも呼びつけるか?」
 ジョンは毛布にくるまりながらあわてて首を振る。
「いや、いいよ。そうだ、出来れば生姜入りミルクティーにしてもらえるかな?」
「ジンジャーミルクティーだな、了解。」
 シャーロックはすでに寝室を出て扉を閉めるところだったが、戸口で振り返って一つ頷いた。

 簡易検査でインフルエンザウィルスに陽性反応が出たジョンは、少なくとも向こう5日間は大人しく寝ていろとシャーロックに言い渡された。
 特効薬のタミフルを服用しているものの、休息が第一だと往診に来た別の医者に指摘されたためだ。
「晩飯に何か食べたいものあるか? ジョン。」
 驚いたことにシャーロックが、ジョンの指示したレシピ通りに作ったスープを朝食に運んでくれたりするようになっていた。
「うーん、リンゴのすりおろしたやつでいいよ。」
「昨夜も同じだったじゃないか。僕は遠慮するなって言ったぞジョン。」
「別に遠慮してるわけじゃない。まだ食欲がほんとじゃないだけだ。すりリンゴならビタミンも水分も取れるし、この状況ではベストなメニューだと思うけどな。」
「そうか、分かった。すぐ持ってくる。」
 言いながらシャーロックが、昼に飲み終えたティーカップや皿を甲斐甲斐しくトレイに乗せて持ち帰ってくれるのを、ジョンは何ということもなく眺めていた。
 そういえば、たまっていたはずの洗濯物もいつの間にか消えている。まさか彼が洗濯までやってくれてる訳じゃないよな。ハドソンさんに渡してるんだ、きっと。でもそれだけでもすごい変化だとジョンは思う。快復したら何かご褒美を考えないと。まぁシャーロックのことだ、何か魂胆があるのかも知れないが…。持ってきてくれたすりリンゴを口に運びながら、ジョンはそんなことを考えていた。

 療養4日目の朝ともなると、特効薬のおかげもあってジョンは快復をかなり自覚できるまでになった。
 階下から卵の焼ける匂いが漂ってきたので、ベッドを出てローブを羽織り、階段を下りてゆく。
「ああジョン、もういいのか? まだ4日目だが。」
 キッチンを覗くと、スクランブルエッグをレタスの乗った2枚の皿に盛り付けていたシャーロックが顔を上げた。
「ありがとう、だいぶいいよ。おいしそうな匂いがしたから…。」
「よかった、食欲も戻ったようだな。もうちょっと待ってろ、そっちまで持って行くから。」
 ジョンはソファーの上にあった新聞を取り、窓際のダイニングに座る。見渡してみるとリビングは掃除が必要な有様だったが、このところのシャーロックの献身ぶりを考えると、言わぬが花というものだろう。
 いつもシャーロックが座るソファーの後ろの床に丸めた衣類らしきものが見え、せめてそれぐらいはランドリーケースに…と思ったのが運のつきだった。手に取るとほのかに洗剤のかおりがして、洗濯済みだと分かる。干せばいいのに何だってこんなところに、と広げてみるとそれは自分のシャツだった。しかもジーンズと一緒に洗われたらしく、薄いベージュ色だったものが部分的に青く移染してしまっている。
 ジョンはシャツをひっつかみ、キッチンに飛び込んだ。
「シャーロック、何だよこれ、僕のお気に入りのシャツじゃないか! 何でハドソンさんに頼まなかった? ここに引っ越して来て初めて買ったシャツなのに…君が余計なことしてくれたお蔭でもう着られないだろ!」
 シャーロックはジョンの顔がまともに見られない様子で、視線を床に落としたまま、何の反論もせず黙って聞いていた。
「朝食はもういい、食欲がなくなった!」
 ジョンはそれだけ吐き捨てると、シャツを持ったままリビングを大股で横切り、階段を駆け上がって寝室のドアを蹴り開け、靴も脱がずにベッドに倒れ込む。急に走ったせいかまたクラクラと眩暈が始まり、下がりかけた熱が上がっているのかも知れなかった。
 ジョンは朝の薬も飲まずにそのまま眠りこけ、目が覚めると午後も遅くなっている。身を起こすとかけた覚えのない毛布が肩からずり落ち、脱いだ覚えのない靴がベッドの脇にきちんと揃えて置いてあった。
 シャーロック…。
 ジョンは自分が一方的に怒鳴っている間、俯いて床を見つめていた横顔を思い出し、強い既視感に囚われる。
 ハッとしてまだ手に持ったままだったシャツをゴミ箱に突っ込み、また階段を駆け降りた。  真っ先にキッチンを覗いたが人影はなく、2枚の皿にきれいに盛り付けられたスクランブルエッグとベーコンが虚しかった。振り返ってリビングを見渡したが、やはりシャーロックの姿はない。ジョンは仕方なく、また階段を上り始める。シャーロックの寝室の扉の前まで来たが、ノックするにはかなりの勇気が必要だった。
「シャーロック、今朝は酷いこと言って済まなかった。謝るよ。」
 扉が開いて、戸惑ったような表情のシャーロックが顔を出した。
「何で君が謝るんだ? 君のシャツを台無しにしたのは僕なのに…。」
「でも悪意じゃない。僕のためにしてくれたことだ。」
「もう取り返しがつかないことを、無理に許してくれなくていい。」
 言いながら扉を閉じようとするシャーロックに、ジョンは慌てて言葉を足した。
「シャーロック、無理じゃない。僕も同じ失敗をしたことがあるんだよ。身の回りのことをほとんどやらない姉だったから、彼女がデートに着て行くつもりだったお気に入りのブラウスを、僕の黒っぽい上着と一緒に…。引っぱたかれてそれっきり、僕らは元には戻れなかった。悪いのは僕の方だって分かってたから、自分じゃどうしようもなくてさ…。君とは、そんな風になりたくないんだ。」
 シャーロックの瞳に、蛍火のような光が点ったのを、ジョンは見逃さなかった。
「…だから、キッチンにある君の朝食をもらってもいいか?」
 もう午後のお茶の時間になっちゃったけどさ…。
「…ダメだ。」
「えっ?」
「ダメだよ、ジョン。冷めてるから食べるなら温めてからだ。」
 シャーロックの悪戯っぽい例の笑顔に、ジョンはホッとして一気に体の力が抜けた。そしてふと気がついて、寝室を出て階段を降りようとするシャーロックのローブの袖を、ジョンは思い切り引っ張った。シャーロックが何だ?という顔で振り返る。
「待てよ、よく考えたら温めない方がいい。スクランブルエッグって電子レンジだと爆発するんじゃなかったかな…。」
「そうなのか?」
「それに、あれ以上加熱したら卵って固くならないかな?」
「そう言われればそうだな、ジョン。あのままでいいのか?」
「いいよ、充分。」
「分かった。」
「その代わり、温かい紅茶も欲しいんだけど。」
「ジンジャーミルクテイーか?」
 言いながら先に立って階段を降りてゆく。ジョンはそんなシャーロックの背中を追いかけて自分もリビングに降りて行った。

「君は不思議な男だな、ジョン。」
 ダイニングで一緒に、ほとんど夕食状態の朝食を食べながら、シャーロックが呟く。
「不思議って、何が?」
「よく分からない。だから不思議と言った。自分で分かってないのか?」
「だから、何がだよ?」
 そうか、自覚がないのか、面白い。シャーロックはそう呟くと一人で何度も頷きながら、食べ終わった皿をキッチンに運んだ。
 自分も汚れた皿を持ってついて行ったジョンが、後片付けをしようとローブの袖をまくり上げると、すかさずシャーロックにベッドに戻れとぴしゃりと言われ、すごすごとキッチンを後にする。
 戸口でふと振り返り、洗い物を始めたシャーロックの背中を見つめていると、忍び笑いを禁じ得ないジョンだった。


【終わり】