Anchor -錨-

 窓がなく、コンクリート打ちっぱなしの狭く冷え切った倉庫のような場所で、シャーロックは目を覚ます。止血帯の代わりに破いたシャツの袖を巻きつけた右腕は、まだ痛みはあるものの血は乾いているようだ。
 かろうじて電源の入った携帯で、たった4文字のメールを送って2日経つのか3日目なのか、既に彼には分からなくなりかけていた。
 それなりの時間が経ったのは確かなはずだが、周囲からは相変わらず物音一つ聞こえず、救助の手が迫っていることを示唆する材料は何もない。やはり…と彼は、何もない壁を見つめて長い息を吐く。
 自分のいない3年の間に、同居人だったジョンは人生の伴侶を見つけていた。看護師と保育士両方の資格を持ち、病院で長期療養中の子供たちのために働いているという彼女、メアリーにはシャーロックも何度か会ったが、落ち着いた大人の女性という印象だった。そのメアリーが今、切迫流産の危険があるためチェルトナムの病院に入院中だと聞いていたのだ。そんな状況のジョンに、今さら何を期待したんだ僕は。
 寒いな。コンクリート打ちっぱなしの床のせいだろうが、そういえばジョンが221Bを去って以来、ずっと暖かさと無縁だった気がする。
 気が付くと、外から複数の足音とくぐもった人声が近付いて来ていた。特に急いでいる様子でもないゆっくりした足取りは、明らかに救助目的ではないだろう。犯人像はモリアティーの残党らしいという以外何も分かっていないが、今のシャーロックはそれで十分だと思える。
 今ここで、自分の命運が尽きるとしたらそれもいいだろう。神のおぼし召しなら仕方ない。ただジョンのことだけが気がかりだった。また以前のように、自分を責めるに違いない。せめて何か一言、メール出来ればいいのに。
 シャーロックがとっくに電源の切れた携帯を恨めしそうに見つめていると、右手の壁に1箇所だけある扉が開いた。


「ジョン、どうしたの?」
 分娩室に運ばれるストレッチャーの上で、メアリーはメールの着信音に反応した夫の様子が一変したことに気付いた。
「いや、別に何でも…。」
 言いながらジョンは慌てて、携帯をジーンズの尻ポケットに突っ込む。
「メール、誰から?」
「いいんだメアリー、今はそれどころじゃ…。」
「済みません、ちょっと止めて下さい。夫と話したいの。」
 ストレッチャーが止まり、メアリーが夫を見上げるが、ジョンはまともに目を合わせようとしなかった。
「ジョン、教えて。メール、誰からだったの?」
「レストレード警部だよ、スコットランドヤードの…。」
 ようやく観念したように答えたが、視線を泳がせたままだ。
「あの、話してて妻は大丈夫なんですよね?」
 ストレッチャーを押してくれていた看護師にジョンが尋ねる。
「数分なら問題ありませんよ。よければ私たちは、この場を離れましょうか?」
「お願いします。」
 この時ばかりは、夫婦がユニゾンで唱和した。
「ヤードの警部さんからってことは…シャーロックの居場所に見当がついたのね?」
 ジョンが驚きに見開かれた眼で妻を見る。その瞳は動揺の大きさを物語っていた。
「…どうして君がそれを…?」
「おとといの朝からだったかしら、病室でのあなたの様子がずっと変だったのよ。気付いてないでしょうけど会話も上の空で…私すごく心配になったの。それでつい…昨日の午後あなたが病室でうたた寝した時、携帯借りちゃったのよ。」
「僕の携帯借りた?」
「…そう。一番最近の着信履歴の番号にかけてみたの。そしたらヤードの警部さんにつながって。最初は渋ってたけど、しつこく頼んだら何があったか教えてくれたわ。シャーロックが1週間以上前に、誘拐されて行方不明だって…。」
「グレッグの奴…!」
「彼を責めないで、ジョン。あなたとシャーロックのためにって、話してくれたのよ。それで、シャーロックはどこにいるの?」
「…まだ分からない。携帯のGPS機能で見つかったらしいんだけど…どこかの会社の建物らしくて令状が取れないって…。」
「…ジョン、あなたが行って。」
「…何だって…?」
「だって…探偵助手のあなたなら令状なんて関係ないでしょ?」
「そうじゃなくて! 僕らの子どもがどうなるかって時に行かれっこない!」
「ジョン、声が大きいわ。」
 ストレッチャーのスチール製の落下防止柵を握りしめるジョンの手が真っ白になっている。メアリーはその上に自分の手を重ねた。
「…メアリー、今はとても行く気には…。」
「そうね…流産するかも知れないし、ちゃんと生まれて来てくれるかも知れない。かなり早産になるけれど。お医者さんの腕と、この子の運次第ね、きっと。」
「メアリー…。」
「人は産まれる時と死ぬ時の、時間や場所は選べない。それは神様の領域だから。あなたがここにいてもいなくても、それは変わらないわ。でもシャーロックには、まだチャンスがある。行けばきっと、まだ間に合うのよ。」
「…だったら令状だってすぐ出るよ。僕よりヤードの警官が行った方が…」
 メアリーのもう一方の腕が伸びてきて、まだスチールの柵をきつく握りしめているジョンの手を両手で包み込む。
「知り合った時に教えてくれたわよね、シャーロックが自分を、高機能社会不適応者だと分析してるって。それってどういう意味だか分かる?…この世に自分を受け入れてくれる人間なんかいないって、彼が思ってるということよ。そんな社会なら適応する必要なんてないでしょう?…その彼があなたを傍に置いたのは、あなたが彼を受け止めようとしただけでなく、何があっても逃げずに踏みとどまった最初の人間だったからよ。
 あなたは錨よ、ジョン。
 あなたが彼を、この世に繋ぎ止めてる。本当の意味で彼を救えるのはあなただけ。だからあなたが行かなきゃだめ。錨を失くした彼が漂流を始めたら、二度と取り戻せなくなってしまうのよ。
 あなたが自分の家族を優先して彼を見捨てるつもりなら…私もあなたと離婚するかも…。」
「見捨てるなんて…メアリー。僕は君を愛してるんだ。もちろん産まれて来る子どもだって…!」
「分かってるわジョン、私も愛してる。友達のためならいつでも、何を措いても駆けつけるあなたをね。」


 扉が開くと、戸口に男が二人立っている。
 ひょろりと背の高い方の男が拳銃を持ち、身長では負けるがボディビルダーのような筋肉のもう一方の男がナイフを手にしている光景を目にして、シャーロックは思わず小さな吐息を洩らした。
「お前に残念な知らせがある。誠に気の毒だが、お前のために身代金を出そうという輩が一人もいないそうだ。ヤードの警部さんを通して、あちこち交渉を試みたんだがねぇ…。」
 その口調がかつての彼らのボス、ジム・モリアティーによく似ていて、シャーロックは軽いデジャブを味わいながら答える。
「当然だな。僕を知ってる人間の大多数は、とっととこの世から消えてくれと思ってるはずだ。」
「まぁだったら彼らの望み通りにしてやるか。」
 撃鉄の起こされる乾いた機械音を、シャーロックはどこか別世界からの音のように聞いていた。この部屋の狭さでは、逃げようにもどうしようもない。彼がそう観念して瞑目した瞬間、2発の銃声が響いた。

 …無事か?シャーロック!
 妙だな、とシャーロックが訝りながら目を開く。
 撃たれたはずなのに新たな痛みを感じないのは即死だからか?…それにしても、これでは生きてるのとほとんど同じじゃないか。おまけに天上音楽がジョンの声だなんて…。
「よかった、シャーロック。どうにか間に合ったな。」
「…ジョン?」
「ああ、僕だ。」
 言いながらジョンは、シャーロックの右腕の傷を診る。
「大丈夫、血はかなり前に止まってる。でも熱が高いし…感染症かも知れない。通報しといたから救急車がもうすぐ…」
「…おい、何で君がここにいる? メアリーはどうした、切迫流産の危険があるんだろう?」
「そうだよ。でも、ちゃんと無事に産まれて来るかも…。」
 眼と眼が合った。
「…ジョン、どうして…?」
「メアリーがそう言ったんだよ。人には生まれる時と死ぬ時の時間や場所は選べないって。神様の領域だから。だから僕が傍にいてもいなくても、結果は変わらないって。」
「ジョン…」
 シャーロックにはその先を続けることが出来なかった。
「医者の腕と産まれて来る子の強運を、僕もメアリーも信じることにしたんだ。」

 シャーロックに続いて救急車の後部座席に乗り込もうとした時、ジョンの携帯が鳴った。
「おい、出ろよジョン。」
 シャーロックに促され、ジョンがのろのろと尻ポケットから携帯を取り出して耳に当てた。
「…はい?」
 そのままジョンは何も言わず、しばらく携帯を耳に押し当てていたが、突然肩を震わせて嗚咽し始める。
「ああ、神様…!」
 そして、なす術もなく見つめていたシャーロックにいきなり携帯を突き付けた。
「…ジョン?」
「メアリーからだ。君の声が聞きたいって。シャーロック、彼女におめでとうって言ってやってくれるか?」
 ジョンの顔はもう涙でぐしゃぐしゃだ。シャーロックは仕方なく彼の携帯を自分の耳に当てた。
「メアリー、僕だ。声が聴きたいって?」
「あらシャーロック、お久しぶり。」
「ええと、ご出産おめでとう…でいいのか?」
「ありがとう! 早産だったから保育器直行なんだけど、ちゃんと肺が膨らんだの。ドクターが自力呼吸できるようになれば大丈夫だって。」
「…その話はまずジョンにしなくていいのか?」
「言おうとしたら彼、泣き出しちゃうんだもの。」
「…そうか。はは、そうだな、メアリー。分かった、僕から伝えるよ。」
 救急車の赤色灯とけたたましいサイレンの音が、これほど心地よいものだとは、ジョンもシャーロックも思ってもみなかった。一緒に乗り込んでいた2名の救急隊員は、この騒音の中、肩を寄せ合って眠りこけている探偵と助手の男2人を、不思議な生き物でも見るような眼で眺めていた。


【終わり】