Reunion -再会-

「ジョン、そろそろ引き上げるぞ。どこにいる、ジョン?」
 シャーロックの声だ。返事をしようと口を開いたのに声が出ない。というよりその前に、息がまともに継げなかった。
 心臓が早鐘のようにバクバクいってるのに、酸素が足りない。明らかな過換気症候群で、陸に上がった金魚みたいに口を開いたり閉じたりしても、ほとんど息を吸えないのだ。酷い耳鳴りで頭がクラクラして、ジョンはその場にへたり込んだ。
 ヤバい。このままじゃパニック障害だ。

「…シャーロッ…」
 大声で叫んだつもりなのに、掠れたヒキガエルみたいな声が出ただけだ。
「ジョン、そこにいるのか?」
 気付いてくれないと思ったが、階段をのぼる足音が近付いてくる。
「シャーロック…!」
「ジョン、そこか。早く来い、引き上げるぞ!」
 開いた扉からシャーロックの頭が覗いた。ジョンは立ち上がろうとしたが、よろけて背中を壁に預け、結局そのまま壁際に座り込む。
「どうした、ジョン! 撃たれたのか?」
 異変に気付いて、シャーロックが飛び込んでくる。ジョンの傍まで来ると、その手を取った。
「…違う…ちょっと…過換気気味なだけ…大丈夫…」
 そう話しただけで眩暈が酷くなり、意識を失いそうになる。シャーロックがそんなジョンの肩を抱いてくれていた。
「いきなり過換気なんてらしくないな、ジョン。何かあったのか?」
 あったも何も…とジョンは文句を言いたかったが、口にしたのは別の言葉だ。
「自分じゃ分かんないよ…。昨日も軽い発作があったけど…大したことなかったし大丈夫だと…」
「昨日もあったのか? 過換気なんて、アスリートでもない限りよっぽどのストレスに晒されないと…。」
 シャーロックは急に何かに思い当たり、一瞬目を細めるとゆっくりと首を振る。
「…あぁ、そうだ。原因はこの僕か…。」
「名推理だな…相変わらず。昨日の発作は、君がバスルームに消えた時だった…。やっぱりこれは夢で…ここで目が覚めるんじゃないかって…怖かった…。何度も221Bに君といる夢を見て…目が覚めると誰もいなかったから…」
 何とか呼吸を整えようと大きく肩を上下させるジョンの胸に、シャーロックが片手を添える。
「そして今また、僕が階下に消えたからか…。ジョン、本当に済まない…。」
 ジョンはシャーロックの思いがけない謝罪の言葉に苦笑する。
「よせよ、らしくないぞ。…それに今は…僕らを守るためだったって…ちゃんと分かってるから…。」
 突然シャーロックが両手を拡げて、まだ肩で息をしているジョンを後ろから抱きしめた。驚いたジョンはもぞもぞと抵抗を試みる。
「…ちょっ…シャーロック?」
 だが今は、眩暈の残る彼よりシャーロックの力の方が強かった。とうとう諦めたジョンが力を抜いて、シャーロックに背中を預ける。
「ジョン…僕は生きてる、本物だ。心臓の音が聞こえるな?」
「…ああ、確かに。聞こえるよシャーロック。」
「姿が見えなくなっても、夢じゃないから消えたりしない。」
「そうだよな…。頭では分かってるんだけど。」
 不思議なことに、シャーロックに抱かれていると呼吸が整ってくる。ジョンはシャーロックに寄りかかったまま、ゆっくりと深呼吸出来るまでに回復していた。
「…まずい、誰かが階段上がって来る…。」
 固い足音がシャーロックの耳にも届いた。
「レストレードだ。僕らがいないから探してるんだろう。」
 ジョンがまた身じろぎするが、シャーロックがジョンの前で交差させた両手の力を弛めてくれない。
「ヤバいよシャーロック、このままじゃ誤解される。」
「それが何だ。君の過換気と、どっちが大事なんだ?」
「どっちって…もう大丈夫だからさ。」
「シャーロック、そっちで何かあったのか?」
 そう言いながら戸口から中を覗き込んだレストレードの呼吸が一瞬止まる。
「おっと…こりゃ済まん、邪魔したな。」
「レストレード! 何を誤解してるか知らんが、遠慮は要らないぞ。」
「…いいのか?」
「そう言ったろう。ジョンが過換気気味で立てなくなってただけだ。」
「何だって?…確かに顔色が…大丈夫なのかジョン? いきなり過換気って、どうしたんだ?」
「心配かけて済みません、警部。頭で分かってても気持ちが追いつかないことが…。でももう大丈夫ですから。」
「僕らもすぐ引き上げるよ。アンダーソンと交代させたいんだろ?」
「まぁな。じゃあ、下で待ってる。あまり彼に無理させるなよシャーロック。」
 言いながら戸口に消えかけたレストレードが、ふと振り返る。
「そうか、彼の過換気の原因ってのはつまり…君か?」
「捜査と何か関係あるのか? それ以上何か言ったら協力しないぞ!」
 しきりに頷く姿がシャーロックの癇にさわったのだ。だがレストレードにしてみれば彼にどやされるのはいつものことだし、そのシャーロックの腕の中で肩をすくめているジョンに笑顔を返して、レストレードは戸口から消える。
「全く君たちときたら、仲がよくて結構だな。」
「レストレードにまで当たるなよシャーロック。本当は自分に腹立ててるんだろうけどさ…そんな必要ない。君が僕らのためにしてくれたことは、立派だと思うよ。」
 ジョンの前のシャーロックの両手から、一瞬力が抜けた。
「何だって? 君を辛い目に合わせたのに…?」
 ジョンはゆっくりとシャーロックから体を離し、その顔を見上げる。
「それはこっちの問題。心の準備が出来てなかったからさ。君は、君のやるべき任務を果たした。きっと君以外の誰にも出来なかったことだ。そんな友達を持てたことを、僕は誇りに思ってる。」
 シャーロックの顔が一瞬、狐に苫まれたような表情に変わり、その後しばし瞑目する。再び開かれた彼の瞳には、いつか見たあの蛍火の光が宿っていた。
「君はこれからも、君の思った通りのことをすればいい。僕のことなんか気にしないで。君のお荷物には、なりたくないからさ。」
「ジョン、君をお荷物だなんて、僕は一度も…。」
「ホントか?シャーロック…」
「やっぱり君は…不思議な男だな、ジョン。」
「それって、前にも聞いた気がするんだけどどういう意味?」
「分かったら苦労しない。だいたい君自身のことなのに何で自分で気が付かないんだ?」
「…バカだからだろ?」
「殺人現場で笑うなと言ったのは君だぞ、ジョン!」
 言いながら2人が連れ立って階段を降り始める。階下で待機していたレストレードがそんな彼らをため息とともに見つめていたことには、どちらも気付いてはいなかった。
 不思議な奴らだな、とレストレードは思っていた。あれだけのことがあって、ジョンはどうするのかと思ったら結局元のままじゃないか。あの2人の間には、きっと死さえも割り込めないに違いない。


【終わり】