One More Miracle



 ある日突然、シャーロックが言った。
「ジョン、覚えてるか? 僕らが初めて出会った夜のことだけど…。」
 僕は一瞬、目をしばたたいてしまった。
「何だよ、寝ぼけてんのかシャーロック? 僕らが出会ったのは夜じゃなかったと思うけど?」
 すると彼もいっとき瞬きを繰り返し、そのまま視線を落としてふっと笑った。
「…ああ、そうだった。病院のラボでだったな。大丈夫、寝ぼけてないよジョン。ちょっと、夢と現実がごっちゃになっただけだ。」
「おいおい、それを寝ぼけてるって言うんじゃないか?」
 どんな夢だったのか聞きたかったが、シャーロックがすぐに話題を変えてしまったので、この不思議な会話を僕は長いこと忘れたままだった。

 僕らが再び出会うあの日まで。


前 承

「おじさん、おじさん大丈夫? こんなとこ寝てたら風邪ひくよ、おじさんってば!」
 耳元で甲高い子供の声がして、目を上げると12歳くらいの男の子が心配そうに覗き込んでいる。あたりを見回したが、暗くてどのエリアにいるのかよく分からない。しかもどういうわけか、身体の節々が痛んで悲鳴を上げていた。
 このところの激務のツケがとうとう回って来たというわけか。フラットにたどり着く前に、睡魔に負けてしまったらしい。
「よかった、目が覚めたみたいだね。お酒の臭いしないけどどうしたの? 大丈夫?」
 ずいぶんこまっしゃくれた子だな。そう言おうと身を起こしたが、節々の痛みに小さなうめき声が出ただけだった。
「どっか痛いの? お水飲む?」
 手渡されたエビアンのミニボトルを戸惑いながら見つめていると、男の子がひょいと肩をすくめる。
「気にしなくていいよ。それ僕のじゃなくて、おじさんの鞄に入ってたやつだから。ごめんね、勝手に出して…。」
「いいんだ、ありがとう。」
 今度は用心して、ゆっくりと身を起こす。一気に半分ほど飲み干すと、どうにか人心地がついた。
「坊やこそ、こんな時間に一人でどうしたんだい? まさか12歳以下じゃないだろうけど、ご家族が心配してるだろう。」
「もう13歳だよ。兄さんとケンカして、プチ家出中なんだ。それに、もう一人じゃなくなったしね。」
 男の子は僕を見てウインクした。
「なるほど。確かに兄弟ってのは、あらゆるトラブルのもとだよなぁ。」
「おじさんも兄弟いるの?」
「うん、姉が一人。やっぱり仲は良くないよ。」
「そーなんだ。」
「ところで坊や、ここがどのあたりか教えてもらえるかな?」
 男の子ほ驚いたように、僕の顔を見つめた。
「どこ歩いてたのか、ほんとに覚えてないんだね。ここはベイカー街だよ。」
「何だって?」
 言われて改めて見回すと、斜め後ろに見慣れたカフェの日除け。白抜き文字の店名がうっすらと読み取れる気がする。
「何だ、目の前まで来てたのか…。」
 一気に脱力しながら男の子を振り返る。彼はにっこりと笑顔を見せた。
「もう大丈夫みたいだね。僕もそろそろ帰るよ。」
「そうか、助けてくれてありがとう。」
 男の子はいったん通りを渡りかけたが、僕が腰を上げようとしないのを訝ったのか、こちらを振り返った姿勢のまま固まっている。
「…もしかして、中でお姉さんが待ってるの? 僕、一緒に行ってあげようか?」
 堪えきれずに失笑すると、男の子は心外だという顔をした。
「いや、笑ってすまない。違うんだよ。嫌な奴が待ってるからじゃなくて、誰もいないのが怖いんだ…。」
 言ってしまった。だがまだこの年齢の子供には、正確な意味は伝わらないだろう。そう思ったのは大きな間違いだった。
「…分かるよ、おじさん。ドアを開けずにいれば、もう寝ちゃったんだなって、信じていられるもんね。」
 もう戻ってこないという現実に、直面しなくて済む。
「…君はいったい、誰を失ったんだい?」
「やだなー、誰もいないのが怖いって、おじさんが言ったんじゃないか。おじさんこそ、何で一人なの?」
 見事にはぐらかされた。この子はきっとただ者じゃない。僕は首を振りながら苦笑した。
「一人じゃなかったんだ、去年までは。ルームシェアしてる友達がいた。シャーロックっていう変わった男で…」
「僕みたいに?」
 気が付くと、男の子は僕の傍にぺたんと腰を降ろしていた。
「ははは…そうだな、同じ黒髪だし、そういえば似てるかも…。」
「どうしていなくなっちゃったの? ケンカしたの?」
「…ケンカならよかったんだけどね。仲直りすればまた会えるから。だけど死んじゃったんだよ、シャーロックは。僕やみんなのためにね…」
 いつの間にか、僕はその子にシャーロックとの短い日々を物語っていた。セラピストに語った時よりずっと長い話になったのに、男の子はただ黙って聞いている。僕の話に決して退屈していないことは、瞳の輝きを見れば横顔からでもよく分かった。
「ほんとに、死んだなんて今でも信じられないよ。ほら、憎まれっ子世にはばかるって言うだろ? 彼はそういうタイプに見えたし…。」
「…死んでないかも知れないよ。」
「な…何だって?」
 男の子はこっちを見ようとしなかったので表情をうかがい知ることは出来なかったが、瞳の輝きがさっきと違うことだけははっきり分かった。まだ13歳だというのに、謎めいているとしか表現出来ない異様な光が宿っているのが見て取れる。
「だって、今の話なら僕でも奇蹟を起こす方法を思いつけるんだもん。少なくとも三通りはね。」

…シャーロック、僕のためにもう一度だけ…

「それが本当なら、今ここでどんな奇蹟か説明してもらえる?」
「うーん、やめておいた方がいいと思う。だっておじさんの楽しみ奪っちゃうことになるもん。」
「楽しみを奪うって?」
「うん。そのシャーロックって人が僕が思ってる通りの人だったら、おじさんの言う奇蹟をきっと起こせるはずだからね。」
「君が思ってる通りの人って?」
 男の子が僕を見てにっこりと笑った。その瞳の色は…。
「おじさん、今夜は楽しかったよ。ありがとう!」
 言い終えると立ち上がって、もう通りを渡りかけている。僕もあわてて腰を上げた。節々の痛みは、とっくにどこかに消えている。
「待ってくれ! 僕はジョン、君の名前は?」
「ホームズだよ。シャーロック・ホームズ!」
 通りの向こうから、13歳の彼が叫んでいた。

 いつの間にか空が白んで、明るくなり始めている。僕が我に返った時には、男の子の姿はどこにもなかった。


 その朝以来、誰もいない部屋で彼の姿を追うことはもうなくなった。
 今はただ、待っていればいい。
 いつか奇蹟が起きた時、再会した彼にかける言葉を、今の僕は知っているから。

 思い出したよシャーロック。
 僕らが初めて出会った、あの夜のこと。


【終わり】