満月の夜に

 ある満月のきれいな夜、ジョン・ワトソンはベイカー街221Bの狭い階段を上っていた。
「ただいま…。」
 居間の扉を開けると、奥に人の気配がしたので一応声をかけてみる。珍しくすぐに反応があった。
「早かったな、ジョン。今夜はデートじゃなかったのか?」
 ジョンは羽織っていたジャケットを自分用のソファーに放り出すと、天を仰いでため息をつく。
「彼女の部屋まで迎えに行ったら元カレがいて…追い出された。」
「それは残念。」
 テーブルの上でPC画面に向かっていたシャーロックが、顔も上げずに返してきた。
 ジョンはちょっとした好奇心から、尋ねてみることにした。
「シャーロック、君ならどうしてた?」
「元カレを叩き出す。当然だ。」
 ちらりと目線だけ投げて来たシャーロックの、にべもない即答にジョンはがっくりと肩を落とす。
「そう簡単に出来たらいいんだけど…。」
「簡単なことじゃないか。君にその気がなかっただけだ。」
 言いながらシャーロックはPCをスリープモードにすると顔を上げ、身体ごとこちらに向き直った。
「その気ならあるつもりだったんだけどな…。」
 ジョンは常ならぬ親友の態度にどぎまぎして、視線を彷徨わせる。
「どうかなジョン。結局彼女が君にとって、その程度の存在でしかなかったように思えるけどね。
 本気で守りたい相手なら、殺人も厭わないし自らの命を投げ出すことだって出来てしまう。そんな君がたかが元カレを叩き出せなかったのは、要するにそういうことじゃないか?
 違うのか、ジョン・ワトソン?」
「わ…わかんないよ。そんな風に考えたことなかった。彼女といると楽しかったのは確かだし。
 それにしても、いつもは僕が女の子の話すると興味がないって話を終わらせるくせに、今夜はやけに絡むじゃないか、シャーロック。」
 シャーロックは、ふと視線を外すと窓の外の満月を気のない様子で眺めた。
「絡んだつもりはないんだが。君が落ち込んでるみたいだから、君を見習って話し相手になってみただけだ。」
「…そりゃどうも。」
 いつもは自分の話なんかほとんど聞く耳持たずのシャーロックなのに、今夜は展開がいつもと違う。ジョンは訝った。もしかして…
「シャーロック、君の方こそ何かあ…」
「…僕といると楽しくないのか、ジョン?」
 ジョン・ワトソンは一瞬凍りつき、生唾を飲み込んだ。
「いや、そういうことじゃない。君とは友達だし仕事仲間でもある。男女の仲とは種類が違うよ。」
「どう違う?」
「男女の仲は、一度離れたら終わる、たいていは。」
 シャーロックが、眺めていた窓からジョンへと視線を戻した。
「友達なら終わらない?」
「…と思うよ。例えば同窓会とか、何年も会ってなくてもホントの友達同士ならすぐ元通りだ。」
「僕らもいつか、そうなれるのか?」
 ジョンはシャーロックの眼を真っ直ぐに見返した。
「もうそうなってるんじゃないか? 君はどう思う、シャーロック?」

「君がそう言うなら、ジョン。」
 言い終えるとシャーロックは、スリープモードだったPCを起動させ、モニタ画面に再び神経を集中させている。ジョンはシャワーを浴びるため、放り出してあったジャケットを手に取るといったん寝室に引き上げた。
窓の外からは煌々とした満月が、そんな二人を見下ろしている。


【終わり】