白 昼 夢

 ジョン・ワトソンは自分が袋小路に追い込まれたことを知った。
 もうどっちに行っても同じだ…。
 どん詰まりの壁に背中を預け、肩で荒い息をしながら思う。
 数日前、酔ってフラットの階段で足を踏み外し、痛めた左足首が盛大に腫れ上がっているのが靴下の上からも明白で、これ以上は一歩も動けそうもない。

 こんな時、隣にシャーロックがいてくれたら…。

 シャーロック・ホームズがバーツの屋上から身を投げて3ヶ月、一日たりともそう思わない日はなかったジョンだが、今日はこれでもう3度目だ。叶わないことが痛いほど分かっているだけに、シャーロックのように余計な想い出を消去できない自分がうらめしい。
 ごく近くで密やかな足音と息遣いが聞こえた気がして、ジョンは身を固くする。

 221Bに戻ることも出来ず、ホテルや友人宅を渡り歩いて無為な日々を過ごしていた彼に、2ヵ月ほど前捜査に協力してほしいと持ちかけてくれたのがレストレードだった。
「僕に推理は無理ですよ警部。ジョンは情報収集なら出来るけど…って、以前シャーロックに太鼓判押されてるし…。」
「とりあえずはそれで十分だジョン。シャーロックに比べたら、こっちだって似たようなものだったんだから。協力してくれるなら、細かいことは気にしなくていい。」
 シャーロック自身が最後に告白した「いかさま説」を頭から信じていない人間が自分以外にもいることを知って、うれしくなったジョンは深く考えずに申し出を受けてしまった。
 そして今夜、ここ2週間追い続けていた連続誘拐殺人事件の犯人に迫りつつあったジョンは、今度は自分が標的にされていることに遅まきながら気付いたのだ。
 シャーロックなら、こうなることは明白だったのに、と言うだろう。

 密やかだった足音が、今度ははっきりとジョンの耳に届き、犯人が少なくとも2人以上であることが分かった。
 さあどうする、ジョン・ワトソン?
 相手が武装していないことなどまずあり得ない。左足首の悲鳴は治まってくれそうもなく、ジョンはジャケットの内ポケットに隠したシグの銃把を握りしめる。
「いたぞ、ジョン・ワトソンだ!」
 物陰から声がしたかと思うと、あっという間に3人の大柄な男たちに囲まれた。銃を持っているのは一人だけだが、残りの二人もナイフをちらつかせている。その構えや身のこなしから、彼らがチンピラなどでなく、専門的な訓練を受けたチームであることは疑いなかった。
 とても無理だ…。
 ジョンは肩で息をしながら奥歯を噛み締める。

 最初の刃の一撃は何とかかわしたものの、2人目に銃をはたき落とされ、直後に銃把で後頭部を殴られたジョンは、その場に膝から崩れ落ちた。
 朦朧とした意識の中で、自分が両手両足を縛られ、2人の男に乱暴に運ばれていることが分かる。近くの路地の暗がりに黒いワンボックスが目立たぬように停められ、ジョンの身体は椅子を取り外した後部座席の床に無造作に投げ込まれた。
 車が走り出すと、運転している銃を持った男以外の2人は暇を持て余し、ジョンに暴行を加え始めた。腹や頭を何度も蹴られ死を覚悟した時、運転席からの鶴の一声が彼を救った。
「お前らいい加減にしとけ。そいつの始末は明日の昼と決めたはずだ。俺の楽しみを奪う気か?」
 ワンボックスが目的の場所に着くころには、ジョンは完全に意識を失っていた。

 何かひんやりと冷たいものが首筋に押し付けられ、ジョンはピクリと身を震わせて目を開く。周囲が明るくなっているから、どうやら夜が明けたらしい。傍に屈み込んでいる黒ずくめの男の姿が見えた。そろそろ死ぬ頃合いということか…。
「…まだ生きてるか?」
 昨夜の運転席の男だろう。冷たい何かはどうやら濡らしたタオルのようなものらしいが、奇妙なことに切れて腫れ上がった唇や大きなこぶの出来た後頭部などに押し当てられ、ゆっくりと冷やして痛みを和らげてくれているようにも思える。
 ジョンは渾身の力で身を捩り、濡れタオルから逃れようとした。
「…止めろ、触るな…っ!」
 動くと同時に全身に痛みが爆発して、また意識を失いそうになる。
「早く…殺せっ!」
 濡れタオルがしつこく追いかけてきてジョンの紫色になったこめかみをとらえ、もう一方の手がそっと背中に添えられた。
「肋骨が折れてるんだ。もう動いたり喋ったりするな。」
 ジョンははっとして目を上げた。聞き覚えがあるどころか、その声は…。
「…シャーロック…?」
 思わず身を起こしかけたジョンは激しく咳込み、飛び散った飛沫に真っ赤な血が混じっている。
「動くなと言ったろう! もうすぐ救急車とレストレードが来る。それまで頑張れるな?」
 背中に添えられた手の温もりを痛いほど感じながら、ジョンは動くことが出来ず、見慣れた横顔をただ見上げて頷いた。
「僕はまだ…時が来るのを待たなきゃならない。僕が生きていたことを、利用しようとする勢力があるからだ。いつになるかは分からない。彼らの時が過ぎるまでだ、ジョン…」
 聞き慣れた友の声と掌の暖かさに、安心しきったジョンは再び意識を失った。

 次に目を覚ますと、ジョンは病院のベッドの上にいた。
 レストレードの心配そうな顔が覗き込み、目が合うとお互いに笑顔になる。
「間に合ってよかったよ、ジョン。」
「…どうやってあの場所が?警部…」
「実は匿名の通報があった。犯行グループの仲間の一人だと名乗ったらしいが、行方知れずのままなんだよ。」
「…お蔭で僕は助かった。意識がなかったんで何にも覚えてないけど、裏切者に感謝しなきゃ。」
「そうだな…。ジョン、本当に何も覚えてないか? 4人全員の顔を見てるんだろう?」
「悪いけど警部、犯人グループが3人だったか4人だったかも、はっきり覚えてなくて…。何しろいきなり銃把で殴られちゃったもんだから…済みません。」
 話しながら、ジョンが何気なくレストレードから視線を外し、その後ろの廊下に面した窓に目をやると、マイクロフトの秀でた額が見えた。
「まぁ仕方ないさ。主犯格は逮捕出来たんだから、連中から聞けるだろう。何か思い出したら知らせてくれ。それじゃ、ゆっくり休んでくれよ。」
 そう言い残してレストレードが出ていくと、入れ替わりにシャーロックの兄、マイクロフトが入って来た。
「ジョン、災難だったようだな。」
「まさかあなたが来るとは…。もう僕はあなたとは何の関係も…」
「匿名の通報者に心当たりがあるんだろう? なぜレストレードに言わなかった?」
 マイクロフトは口角を上げて笑顔を作って見せたが、眼は笑っていない。
「心当たりなんてまさか。ずっと意識を失ってたんだ。何も覚えてるわけないでしょう。」
「では全ては君の白昼夢、そういう事かな…?」
 ジョンはマイクロフトの視線を受け止め、真っ直ぐに見つめ返す。
「マイクロフト、僕は白昼夢なんて見ませんよ。」
「そうだったな、ジョン。君は現実主義者だ。分かってるとも。」
 作り笑いをおさめたマイクロフトはゆっくりと病室を横切り、ドアを閉めて去っていった。

 1ヶ月後には退院出来ることになったジョンだが、彼はしばらくベイカー街には戻らないことを決めた。退院後に新たに借りたフラットでは、荷物を解く前にやることがあった。
 …この場所で生きて行くには、まずは仕事を見つけなければ。
 あの日以来更新していなかったブログに、ジョンは最初にそう書いた。


【終わり】