The Night Before

 その金曜日の夜、グレッグがジョンをパブに誘ったのは全くの偶然からだった。
 小さな事件を一つ解決に導き、誰かと飲みたい気分だったがヤードの人間だとその場にいない誰かの悪口や愚痴の応酬になってしまう。そんなグレッグの頭に浮かんだのが、しばらく顔も見ていなかったジョンだったのだ。
 そうして久し振りに、今は病院勤務のジョンとパブのカウンターに隣り合って座り、ビールを飲み始めたグレッグだったが、カパカパとグラスをあおるジョンのペースの早さに舌を巻く羽目になった。
「なぁジョン、最近221Bに戻ったんだってな。」
「えっ? ああ、ごめん。最近じゃないよ、戻ったのは去年。ハドソン夫人が…僕らがいないと淋しいって言うから。」
「僕らったって、君一人だろ。」
「まぁね。でも夫人とシャーロックの思い出話で盛り上がれるから、思ったより楽しいよ。」
「だったらよかった。君の飲みっぷり見てたら、何があったのかと心配になったもんでな。」
「あったも何も…。」
 ジョンが苦笑しながらグラスを脇へ押しやるのを見て、グレッグがホッと溜息をもらす。
「何で僕は、まだ見張られなくちゃならないんだ?…もう何の関係もないってのに!」
 ホッとしたのもつかの間、ジョンの既にかなり出来上がった様子に頭を抱える。
「…見張られてるって、マイクロフトにか?」
「他に誰がいる? ここ2年くらいは呼び出しもないし、やっとお役目終了かと思ってたら…。」
「まさかまた始まったってのか?」
「ああ、そのまさかだよ。しかも今度の部下は尾行が下手で…振り返ると黒いコートが慌てて角の向こうに消えたりしてさ。」
「おやおや、まだ尾行までされる御身分だったとは。」
 グレッグが言い終えると同時にジョンの携帯が鳴り、2人はしばしその着信音に聞き入っていたが、とうとうジョンが通話ボタンを押す。
「…やっぱりあんたか。いい加減にしろよ。もう関係ないって言ったはずだろ!」
 携帯からはまだ何か喋っているらしい声が聞こえていたが、ジョンが無理やりクリアボタンを押してしまった。そのままジーンズのポケットに携帯をつっこむ。レストレードがそんなジョンをじっと見つめながら口を開いた。
「その尾行とやらは、いつから始まったんだ?」
「…知らないよ。僕が気付いたのは、ここ2、3日のことだけど。」
「いったい何の必要があって、君を見張り続けてるんだろうな、マイクロフトは。」
「さあね。向こうに聞けって。」
「君は聞いてみたことないのか、ジョン?」
「理由なんぞ知りたくもない!」
「…ジョン?」
「…そりゃ僕だってバカじゃない。たぶんシャーロックに関係あることなんだろうってとこまでは考えたさ。だけど、今さら何だ? シャーロックはとっくにこの世にいない! そりゃ僕だって、どこかで生きててくれたらって何度も…そりゃ僕の方こそ…っ」
 いつの間にか、ジョンの眼からは大粒の涙がぼろぼろこぼれていた。
「生きてるなら何で、僕に知らせてくれない? あれだけ自信過剰で傲慢不遜な奴が、僕はいかさまだ、なんて…僕にだって何か裏があるって分かるのに…。なんで僕に、何も言ってくれなかったんだシャーロッ…」
 再び語尾が乱れ、歯を食いしばって嗚咽をこらえるジョンの肩に、レストレードがぽん、と片手を乗せる。
「…俺は仕事柄、奇蹟なんて信じない男だがね、ジョン。今の君の話を聞いて確信したことがある。」
「まさかグレッグ、あいつがどこかで生きてるなんて言い出すんじゃ…。」
「監視が続いてる理由が他にあるか、ジョン? しかも尾行までされるとくりゃ、再会の日も近いのかも知れないぜ。」
「それならどうして、今会いに来ないんだ!」
「…そりゃ奴さんだって人の子だ。殴られると分かってて、ノコノコ出て来たりはしないだろうさ。」

 結局その夜はとことん飲み潰れたジョンが、フラットに戻ったのは明け方近い時間帯だった。
 ベッドに倒れ込むと同時に眠りこけ、夕方前に目を覚ますなどあり得ないと思われたが、どういう訳か昼近く、彼はぱっちりと眼を開く。
 安眠が妨げられた理由はただ一つ、階下から響く懐かしいヴァイオリンの旋律だ。
 どれほどこの音色に飢え渇いていたことだろう。ベッドから身を起こしたジョンは、しばし陶然と聞き入っていたが、意を決するとゆっくりとベッドから離れ、リビングに続く階段を降り始める。
 ドアノブに手を掛けようとしたその瞬間、演奏がピタリと止んだ。
 ジョンの全身をゾクゾクと戦慄が走り、聖書の一節が頭の中で響き渡る。

 荒れ野に呼ばわる者の声がする。
 主の道を備えよ。その道筋をまっすぐにせよ。

 そして扉は開かれた。


【終わり】