I Owe You... 01

2014年6月22日(日)開催の同人イベントにて頒布した新刊の書き下ろし小説です。
イベント後1か月以上経過したので、こちらにも完結まで順次アップしていきます。



 その朝、珍しく寝坊したジョンが欠伸をかみ殺し、寝癖でハリネズミ状態の後頭部を撫でつけながらリビングの扉を開けると、奥のキッチンから明らかに女性とみられる軽やかな笑い声が聞こえ、ジョンは思わず、開きかけた扉を閉じてしまった。
 部屋を間違えたかな…? いや、それはあり得ない。シャーロックも一緒だったじゃないか。
 …てか、シャーロックが女性と一緒にいるって? しかも彼女は…。
 ジョンは意を決して、もう一度勢いよく扉を開く。
「あらジョン、遅かったわね。」
 振り返って先ず声をかけて来た女性は、あのアイリーン・アドラー。驚いたジョンは、目をパチクリさせることしか出来なかった。
「君が寝坊とは珍しい。」
「いやその、昨夜遅かったから…。」
「知ってる。遅くまでパブにいたんだろう。どうやら君は、またフラれたらしいな。」
「そういう君は、どうなんだよ?」
 男二人が言い争っているうちに、アイリーンが甲斐甲斐しく、出来上がった朝食の皿をダイニングテーブルまで運ぶ。その姿を目で追いながら、なぜか底なしの暗闇を覗いたような恐怖にかられて、ジョンは頭を振る。
「見ての通りすこぶる順調だ。君のアドバイス通り僕もガールフレンドを持つと決めた瞬間から、彼女のことしか頭になかった。」
「…だけどシャーロック、彼女はその…証人保護プログラムで名前も変えてアメリカに…。」
 そんなジョンにアイリーンが微笑みかけていたが、眼は決して笑っていない。その瞳は、さっきから感じている底なしの暗闇そのものだ。
「証人保護って何のことだジョン。彼女はここにいるぞ。」
「そうだけど…。だけど以前君は、愛ほど危険な感情はないって…。」
「確かに言ったが、あのころはまだ本当の恋愛を経験していなかった。」
「今は経験済みだって言うのか?」
「…ああ。彼女のおかげで、本当の喜びを知ったよ。」
 言いながらシャーロックが、傍らの彼女の腰に手を回し、2人はしばし見つめ合う。
「その…。僕はお邪魔なようだから外で…。」
「あらジョン、せっかくあなたの分も作ったのに。」
「その通りだ、遠慮はいらない。」
「…それじゃ、お言葉に甘えて。」
 テーブルについたジョンが食事を始めると、キッチンから出て来た二人はお互いの耳元でヒソヒソやっては笑い合いながら、シャーロックの寝室に消える。そしてジョンが食事を終えるころ、2人ともめかし込んで出て来た。
「出かけるのか?」
「これからその…2人で映画を見に行ってくる。」
「シャーロック、君が映画鑑賞だって?」
「…何か問題か?」
「だって…退屈するに決まってるだろ? 何だって急に…」
「そうとは限らないわワトソン先生。最近話題の、とってもいい映画なんですもの。さ、行きましょシャーロック。」
 連れ立って戸口に消えた2人だが、扉を閉めるために一瞬こちらを振り返ったアイリーンの横顔が、ジム・モリアティーに変化した。鋭くジョンを睨みつけ口だけ動かして何か言ったが、メッセージは明白だ。

 邪魔立ては許さんぞドクター・ワトソン。

「…シャーロック!!」
 ジョンの身体に戦慄が走り、彼女と最初に目が合った時から感じていた闇の正体を悟った彼が、とっさに叫んで後を追ったが遅かった。
 目の前で閉じられた扉を、ジョンはどうやっても開くことが出来なかったのだ。


 ジョンが目覚めると、221Bの自分の寝室にいて、ベッドから身を起こしたところだった。どうやら夢か、と大きく息を吐く。もうすぐ10月だと言うのに、見れば髪も下着もじっとりと汗ばんでいる。
 先ずはシャワーだと階下に降りたジョンがリビングの扉を開けると、旅支度を整えたシャーロックと眼が合った。
「遅かったなジョン。朝食先に済ませたぞ。」
「ああ、ごめん。君は今日からルーマニアへ出張だったな。」
「有名なトランシルベニア地方だ。」
 ジョンの眼前に、昨夜のモリアティーの残像が甦る。
「その、シャーロック。僕も一緒に行くわけには…。」
 シャーロックが、明らかに怪訝な表情を浮かべてジョンを見た。
「ルーマニア政府から僕一人でと指名されたことは、話してあったよな? それに君はデートの先約があると…。」
「そうだった、分かってる。」
「ジョン、何かあったのか?」
「ごめん、ちょっと夢見が悪かっただけだ。」
「心配するな。予定では3日、長くても一週間以内には戻れるはずだだ。それまで彼女に振られるんじゃないぞ。」
 そう言い残し、シャーロックはベイカー街を後にした。

 ところが結局2週間経っても、彼は戻って来なかったのだ。


【続く】