Happy Birthday John!

夏のある日、ジョンが行きつけのパブに向かうと、扉の向こうの店内には人影がなく、薄暗いことに驚いた。
「ヘンだな。水曜はサービスデーでかき入れ時なのに休んでるのか?」
 独り言をつぶやきながらドアノブに手をかけると簡単に開く。閉まっているつもりで腕に力を込めてしまったため、ジョンの身体は店内に向かって開いた扉と共に店内に吸い込まれ…
「…サプライズ!」
 聞き慣れた誰かの叫びと共に、いくつかのクラッカーやコルクの栓が弾ける音が耳元でポンポンと響く。すっかり戸惑ったジョンが首謀者は誰かと周囲を見回すと、してやったりという表情のレストレードと目が合った。
「どうやら成功したようだ。ハッピーバースデー、ジョン!」
「…あれっ、今日って8月7日でしたっけ?」
「ああ。地球の公転周期が変わったのでなければな。」
「済みません、グレッグ。ありがとう。」
 ぎこちない照れ笑いを浮かべたジョンだが、それでもレストレードは満足したらしく、手にしたグラスの中身を一気に飲み干すと、新たな一杯を取りにカウンターに消える。ジョンもビアマグ片手に店内を巡り始めると、知った顔や知らない顔から口々に「おめでとう!」と声がかかった。
 律儀に会釈を返しているジョンだが、人波が一瞬でも途絶えるとその視線が彷徨い出すのを見逃すレストレードではない。一通りの挨拶を終え壁際に引っ込んでしまったジョンの傍にゆっくりと近づいて声をかける。
「そのヒゲ、何のゲン担ぎだジョン?」
 ジョンが明らかにぎくりとして振り返る。
「…きっと笑いますよ、グレッグ。」
「そんなもの、話してみなきゃ分からんさ。」
「ゲン担ぎって言うより願掛けかな。子供のころ父が、母の病気が治るまで髭を剃り落さなかったことがあって…。僕も、会いたい友達に会えるまでこのままにしておこうかと…。」
「君が会いたい友達ってのはまさか…シャーロックか?」
 横目でレストレードの表情をうかがっていたジョンは、溜息をつきながら壁際を横に一歩、彼から離れた。
「分かってるんです。剃り落とせる日は永遠に来ないってことぐらい僕にだって…。でも…彼が飛び降りる一部始終をこの目で見たのに、どこかで生きてることを信じてる自分がいて、何かせずにはいられなかったんだ。いや、結局ただの願望なんでしょうけどね…。」
 レストレードが、なおも彼から離れようとするジョンに一歩近付いた。
「君も医者なら、俺たちの脳がごく一部しか使われてないって話は知ってるよな?」
「…は? 潜在意識のことですか?」
「ああ。脳の潜在部分が、広大な無意識の領域を作ってるってのは、どうやら本当らしいじゃないか。」
「僕もあまり詳しくないけど、よく言われる話ですよね。それが何か…?」
「君は一部始終を見た。にもかかわらず、彼の死を信じていない君がいる。」
「やっぱりただの願望かも…。」
「別の見方もある。シャーロックが生きてる可能性を示す何かを、君はそこで見たのかも知れないぞ。」
「だったらなんで思い出せ…あっ。」
「そうだとも。きっとあまりにも些細なことで、意識に上って来ないだけなんじゃないか?」
 ジョンはゆっくりと首を振る。
「違いますよグレッグ。ちゃんと見てなかっただけだ、僕がバカだから。」
「まぁ、奴ならきっとそう言うんだろうけどな。」
「…ありがとうグレッグ。最高のバースデイープレゼントになりましたよ。」
 顔を上げてそう言ったジョンの晴れやかな表情を見ると、レストレードも一息ついて頷いた。


 サプライズ・パーティーもつつがなく終わり、ほろ酔い加減のジョンが221Bとは別のフラットに戻ったのは明け方近くになってからだった。
 ルームライトをつけると、一渡り見回して出かける前と変わりがないことを確かめる。ダイニングテーブル上の閉じられたノートパソコンの上に、見慣れない物体を発見したのはその時だ。
 近づいてみるとそれは手のひらに乗るほどの小さなオルゴールで、金属製の基部をガラスケースで覆っただけのシンプルなものだった。手に取ってためつすがめつしたが、特に異常は見られなかったので試しにネジを巻いてみる。
 流れ出したのはあの有名な、ディズニー映画のメロディー。

 When you wish upon a star...

 まるでさっきの会話を聞かれてたみたいじゃないか、とジョンは思う。
 こんなことが出来るのは、歩く英国政府のマイクロフト・ホームズと、そしてもう一人…。
「全くどこまで底意地が悪いんだ。とっとと出てくればいいものを…。」
 そう独りごちながらも、ジョンは手のひらに乗せたオルゴールをいつまでも見つめている。

 シャーロックがこの世のどこかで生きているなら、今はそれで十分だ。
 いつか時が来れば、本物のサプライズ・プレゼントが僕を訪れるだろう。


【終わり】