時の碑 02

シーズン1と2の間あたりの出来事と想定してますが…何とジョンは8歳のコドモ。またしても時間パラレルです。
また、ジョンの家族を捏造してもいますので、オリキャラ等の苦手な方は閲覧ご注意下さい。
(シャーロックの父親も、名前以外は捏造ですのでご了承下され…)


 翌日、男の子が学校を終えて家に戻ると、玄関の扉の外まで母親の笑い声が響いている。滅多にないことなので窓から中を確認すると、リビング・ダイニングのソファーにもたれる黒っぽい服を着た背の高い男性の後姿が見えた。
「ホントに来てくれたんだね、お巡りさん!」
 叫びながら飛び込んできた男の子を、今日はコートでなく黒のスーツ姿の男が立ち上がって迎えてくれた。
「お帰りジョン。今日は学校は休んでいるかと思ったが…元気そうで何よりだ。」
 男の子は言われて初めて思い出したように、額の大きな絆創膏に触れた。
「あのあとママが…ボクが眠るまで、タオルでずっと冷やしててくれたんだよ。朝起きたらもう、ぜんぜん痛くなかったんだ。」
「そうか。大したことにならなくてよかったな。」
「さぁジョン、飲んだらお部屋に行って、宿題やっちゃいなさい。」
 男の子が帰ってきてすぐ、キッチンに引っ込んでいた母親がホットミルクの入ったマグカップをトレイに乗せて現れた。
「えー、やだよ。宿題なんて夜ればいいんだもん、ボク、お巡りさんと遊びたい!」
 ダイニングテーブルの大人用の高い椅子に座り、床に届かない足をブラブラさせながら牛乳を飲んでいる男の子を、スーツの男は面白そうに見つめ、ほころびそうになった口元を無理に引き締めているようだった。
「ジョン、宿題だ。」
「え~! お巡りさんまで、なんでー?」
「その代わり、ここでやってもいいから。」
 とうとう母親が、笑いをこらえながら助け舟を出す。
「ホント? お部屋行かなくていいんだね、わかった!」
 男の子は空になったマグカップを持ったまま、ひょいと椅子から飛び降りるとリビングを駆け抜け、奥のキッチンに飛び込むとシンクにマグカップを転がす。また駆け戻って来ると、床に放り出してあった通学カバンからノートや筆記具を引っ張り出し、再び高い椅子に飛び乗った。
「ねぇお巡りさん、分かんないトコあったら聞いていい?」
「…あぁ、構わないが…実はジョン、僕は…その…」
「ジョン、この方、本当はお巡りさんじゃなくて、弁護士さんなんですって。」
 一瞬言い淀んだスーツの男の後を母親が引き取る。
「べんごしさん?…て、何する人だっけ?」
 男の子は狐につままれたような顔で、母親とスーツの男を交互に見つめた。
「…クライアントから依頼を受けて、法律上のアドバイスや手助けをする仕事だな。」
「じゃあ、ママから依頼があったの?」
「そういう訳でもない。昨夜たまたま通りがかったというのは本当だ。暴力沙汰の場合、とりあえず警察を名乗った方がうまく行くことが多いんだよ。」
「な~んだ、それで今日もお巡りさんの制服着てないんだね。」
 男の子はようやく納得した様子で、ノートに鉛筆を走らせ始める。スーツの男もソファーに座り直し、A4版ほどの大きさの分厚い茶封筒を改めて母親に手渡した。
「もう一度中身を確認されますか、奥さん?」
「そうね、でも、後で一人になった時でいいわ。本当に、ここまでして頂けるなんて驚きました。対価をすぐにはお支払い出来ないのに…。」
「ご心配なく。ジョンが社会人になった時にでも、改めて請求させて頂きますよ。」
「でも…現職の法務副大臣がサインした裁判所命令の書類なんて、普通の弁護士さんでは頼んでも作って頂けないんじゃないかしら。…だとすれば、この子が仕事を持ったとしても簡単に払える金額とは思えないけど…。」
 スーツの男が、不器用に鉛筆を動かしている男の子のまん丸い頭を見つめながら穏やかに応じた。
「その点もご心配いりません。ご子息にはこの先、この件の対価以上に助けられることになるはずですから。」
 男の子の母親は、息子を見つめるスーツの男の冷たいブルーの瞳の奥に、蛍火のような光が点っているのを見逃さなかった。その暖かさは、いつか彼の言葉通りになる日が訪れるに違いないことを、信じるに足る光だと思える。
「ではせめて、この書類にサインのある法務副大臣、サイガー・ホームズさんとどういうお知り合いなのかだけでも、教えて頂けないのかしら。」
「申し訳ない、国家の機密に属することですので。」
「…やはり、ただの弁護士さんではないということね…。」
「いずれ分かりますよ、ワトソン夫人。それでは僕はこれで…。」
「帰っちゃうの?…なんで?」
 見れば男の子がいつの間にか、椅子を抜け出して母親の傍に寄り添っている。
「あしたパパが戻ってきちゃったらどうすればいいの? ママはボクと一緒に何度も逃げたけど見つかって…何度もぶたれて…家から出るなって言われちゃうんだよ! おじさんが助けてくれると思ったのに…!」
「ジョン、大丈夫よ。パパは専門的なカウンセリングを受けることになって、しばらく戻って来ないの。その間に、私たちがパパの知らないところへ引っ越すのよ。そのための裁判所命令の書類を、この方が持って来て下さったんだから。」
 慌てた母親が早口に説明したが、8歳の男の子には理解できない単語が多過ぎた。 「だって…そう言ってホントに大丈夫だったことなんて、今まで1回もなかったじゃないか!」
 男の子はそう言い捨てると外に飛び出して行ってしまった。
「ジョン、待って! 一人で出ちゃだめよ!」
 後を追おうとした母親を、スーツの男が両手を拡げて押しとどめる。
「大丈夫、彼なら分かってくれる。」
 そう言い残し、自ら後を追って走った。
「ジョン、待ってくれ。ちゃんと話そう!」
 路地を抜け、大通りに飛び出す寸前だった男の子は足を止めて振り返る。その瞳からは、やはり大粒の涙が溢れていた。
「…どうしてみんないなくなっちゃうの? ハリーのことでママずっと泣いてたのに…。」
「ハリー…そうか、お姉さんのハリエットだな? 出て行ったのか…彼女は中学生?」
「そうだよ。お姉ちゃんは15歳で…同じ学校の上級生のお姉さんたちと3人で、ルームシェアしてるってママが言ってた。ママもボクもお姉ちゃんが大好きなのに…パパが嫌いだからもう戻って来ないんだって…。」
「…そうだったか…。だから君は、ママの前では涙を見せなくなったんだな…。」
 この一言で、男の子が堰を切ったように声を上げて泣き出し、その場にへたり込む。スーツの男は一瞬戸惑いはしたものの、男の子の傍にぎこちなくしゃがみ込むと、小さな背中を両腕で包み込んだ。
「…少し熱があるな、ジョン。やっぱり今日は一日、頭が痛かったんだろ…?」
 スーツの男の腕の中で、男の子は何度もしゃくり上げながら頷いた。
 …全く君は、まだこんなに小さいのにどうして完璧にジョンなんだ?…
 男の子が声を上げて泣いていなければ、男のそんな呟きを聞き取ることが出来ただろう。
「ハリエットを責めるな、ジョン。家族の責任を果たしてるとは言えないが、彼女なりの選択をしただけだ。」
 ひとしきり泣いてようやく落ち着いた男の子は、じっとスーツの男を見上げている。
「分かってる。お姉ちゃんを責めても何も解決しないって、ママも同じこと言ってたし。」
「…そうか。さっきそのママも説明してたが、君のパパはカウンセリングを受けることになったから、当分戻って来られないんだ。」
「その話、ホントなの?」
「もちろん。君たちはその間に、パパの知らない遠くの土地に引っ越す。パパには君たち親子を探しちゃいけないって裁判所の命令が出てるし、ロンドンを出るには許可がいるようになるから、これからは君のママを殴ることは出来なくなるんだよ。」
 男の子が顔を輝かせた。
「さいばんしょのめいれいって、さっきママが持ってた封筒? おじさんがもらってきてくれたの?」
「まぁそうだが…ジョン、その…オジサンってのは何とかならないか?」
「だって、名前を教えてくれないんだもん!」
 せいいっぱい口を尖がらせる男の子に、さすがの男も頬を緩めずにはいられない。
「…今はまだ、君がそれを知る必要はないんだ、ジョン。次に会う時に何もかも、分かるようになるんだから。」
「次に…? またおじさんと会えるってこと?」
「そうだ。だいぶ先の話になるはずだが、君なら覚えててくれるだろ?」
「ぜったいに忘れない。男同士のやくそくだもん!」

 男の子の母親が夕食の支度を始めようとキッチンに入りかけた時、ノックの音がして戸口に男が現れた。
「途中で眠ってしまったので…。」
 言いながら、背負っていた男の子をリビングのソファーに横たえる。母親がすかさず毛布を持って来た。
「今日は色々あったから。頭の傷も、治ってなんかなかったし。」
「やはり、気付いておられたんですね。」
「休ませようと思ったんだけど…この子ってば何ともない、学校行く!の一点張りで…。」
「あなたが一緒なら、ジョンは素晴らしい子に育つでしょう。」
 母親がそんな男の横顔を、じっと見つめながら尋ねる。
「どうしてこの子に、そこまでして下さいますの?」
 男も無言で母親を見返す。
「…あなたが私たち家族のためでなく、この子のためにだけ来られたことは、もう分かってるんです。私も女の端くれですから…。だって、まるで違いますもの…私や父親を見るあなたの視線と、この子に向けられる眼差しが…。」
「いや…奥さん、僕は決して…」
「いいんです、何もおっしゃらないで。でもあなたのことは忘れません。感謝しています。」
 明らかにどう反応していいのか分からず戸惑った表情のままの、スーツの男が去ってしばらくすると、ソファーの上の男の子がもぞもぞと目を覚ます。
「…帰っちゃったんだね、べんごしさん。」
「そうねジョン。とっても不思議な人だったわ。」
「フシギって?」
「ママ思ったんだけど…。あの人はきっと、あなたの守護天使に違いないわ。そうでもなきゃ、説明できないことがたくさんあるもの。」
「学校の友だちは、守護天使なんていないって言ってるけど…。」
「でも…あなたの天使は本物だった。さぁジョン、明日から引っ越しの準備よ!」


「僕はシャーロックホームズ。住所はベイカー街221のB。じゃあまた!」

 機関銃のように放たれる言葉と悪戯っぽくきらめく瞳、そして盛大なウィンク。  ジョン・ワトソンが彼の守護天使の正体を知るのは、それから20年以上もの歳月が流れた後のことだ。

「…君は30歳を過ぎても、8歳の頃と大して変わっていないんだな…。」
 ある晩シャーロックがそう呟き、ジョンの脳裏にあの頃の全てが甦った。
「変わってないのは君の方だろシャーロック! もっともあの頃は小さかったから、もっと大男かと思ってたけど。それにしても法務副大臣のサインなんて、どうやって…。」
「父のサインを完璧に真似るくらい、僕にとっては造作もないことだからな。まぁ当時の彼が何をやってたのか詳しくは知らなかったから、多少調べはしたが。」
「…あのころは君が守護天使だって、何の疑いもなく信じてたのに…何というか。」
「がっかりさせて済まなかったなジョン。だが、守護天使の実在は本当かも知れないぞ。」
「…どういう事だ?」
「『時間』だよ、ジョン。それが天使の正体だ。ある朝僕が目覚めると、20年以上も昔のロンドンにいた。何が起こったのか戸惑ったが、君の生家が近くにあると知ってからは違った。来た目的を悟ったわけだが…そんなところへ僕を遣わした何者かが存在するということだろう? それが何なのか人間には知覚出来ない。そんな存在を僕らは神とか、守護天使とか呼ぶんじゃないのか?…どう思う、ジョン?」
「…君がそう言うなら、きっとそれが正解だよシャーロック。」
 ジョンの言葉にシャーロックが満足そうに頷く。
 本当はがっかりなんかしていない。今も昔も、僕の守護天使は君一人だという言葉を、ジョンは結局飲み込んだ。


【終わり】