Absolute Night -完全無欠な一夜-

「伏せろ、シャーロック!」
 すぐ後ろから聞こえたジョンの叫びにシャーロックがたたらを踏むのと、2発の銃声とが同時だった。背後から飛び出した人影が一瞬彼の視界を遮ったと思うと、そのまま地面に崩れ落ちる。
 こらえ切れず同時に尻もちをついたシャーロックが身を起こした時には、目の前でジョンが仰向けに倒れていた。その右脇腹下の石畳に赤黒い血だまりが拡がっていくさまを、シャーロックは現実感覚の麻痺した頭でただ眺めていた。

「…ジョン…?」
 こわばって上顎にへばりついてしまった舌を何とか動かし、彼の名を呼んだがその眼は閉じられたままだ。シャーロックは腕を使って彼ににじり寄ると、耳元まで顔を近付けて声を絞り出す。
「ジョン、大丈夫か? 返事をしろ、ジョン!」
 ジョンの唇がピクリと動いて、何か言おうとしている。シャーロックは今度は彼の口元に顔を寄せた。
「…無事か…?…シャーロッ…」
 苦痛に歪んだ表情のまま、それでも自分の身を案じるジョンの言葉にシャーロックは胸を衝かれ、励ますようにその手を握る。
「君のおかげだ、ジョン。僕は無事だぞ、ここにいる。」
 言いながらもう一方の手で携帯を操作した。
「…そうか…よかっ…」
 シャーロックは携帯をしまうとジョンの額に手を当て、そのまま優しく髪を撫でた。
「今救急車が来る。もう喋るなジョン、体力を温存しろ。」
「…犯人は…?」
「君が仕留めた。レストレードも呼んであるから、あとは彼らに任せればいい。喋るなと言ったろ!」
 唇の端をひん曲げ、何とか照れ笑いの表情を作ろうとするジョンの頭をシャーロックが胸に抱いた時、救急車のサイレンが近付いて来た。

 暗い病院の廊下で壁に寄りかかって、シャーロックは天井の染みを見るとはなしに眺めていた。傍のベンチにはハドソン夫人が呆然とした様子で腰かけている。誰かが自分を呼んだような気がして声のした方に顔を向けると、廊下の突き当たりでレストレードが手招きしている。近くにドクターらしき白衣を着た男性の姿もあった。
「どうしたんだレストレード。」
「実は今、病院からジョンのお姉さんに連絡してもらってるんだが…旅行にでも行ってるのか携帯が全く繋がらないそうなんだ。」
「それが何か問題か? 緊急手術も終わって、ジョンは大丈夫なんだろう? 連絡が取れてからでいいじゃないか。」
「それがそうも言ってられん。手術は無事に済んだが、思ったより出血が酷くて…2~3日はどうなるか分からんそうなんだ。」
 傍らでドクターらしき白衣の男も警部の言葉に頷いている。
「分からんって、どういう事だ?」
「覚悟が必要ということですよ。だからぜひご親族と連絡が取りたい。明日では遅いかも知れないのでね。」
 シャーロックらしからぬ察しの悪さにレストレードが返事に困っていると、ドクターが引き取って説明してくれた。
「…明日では遅いだと?」
 シャーロックは一瞬瞑目し、声が大き過ぎたことを悟って大きく息を吐く。
「だったら連絡を続けてもらうしかない。そういうことなら、今夜は僕がジョンについてるよ。一応同居人だし、こういう場合身近な誰かの励ましが必要なんだろ?」
「分かりました、連絡を続けましょう。何かあったら呼んで下さい。」
 ドクターはそう言って2人に一礼するとその場を去った。レストレードも、君で慰めになるかどうか分からんがという軽口を飲み込み、シャーロックの肩を一つ叩いてヤードに戻って行く。シャーロックから話を聞いたハドソン夫人は自分も残ると言ったが、彼が221Bからジョンの荷物を持って来てほしいと頼むと、いったん戻ることを承知してくれた。
 シャーロックは人気のなくなった廊下を通り抜け、ジョンの病室に入る。
 点滴や呼吸器など何本ものチューブにつながれ、眼を閉じたままのベッドの中のジョンの顔を見下ろすと紙のように白い。なるほどモルグに横たわる死体みたいだと、シャーロックは縁起でもないことを思い起こし、慌ててそのイメージを振り払う。近くにあったスツールを引っ張って来てベッドの傍に座り、ジョンの腕にそっと触れた。驚いたことに僅かな反応があり、その手を取ると弱々しいながらジョンは握り返してくれる。
「…ジョン!」
 何か言わなくてはと口を開きかけたシャーロックだが、結局言葉にならなかった。明日では遅いかも知れないと言ったドクターの言葉が頭を離れない。
 このまま君を失うことになるのか、ジョン…?
 シャーロックはジョンの手を握りしめたまま、ただ座って長い夜を耐えていた。

 ジョンが目を覚ましたのは翌日の夜も遅くなってからだった。
 目を開くと先ず傷の痛みに怯み、続いて誰かの寝息が聞こえたのでそっちに首を回すと、シャーロックの憔悴しきった寝顔に出くわした。
 起こすには忍びなかったが、意識が戻ったことを伝えなければならない。気付けば眠っているはずのシャーロックの右手が自分の左手を握りしめている。しばしその様子を眺めたあと、ジョンは思い切り強く握り返した。
 とたんに目に見える反応があり、シャーロックが椅子から転げ落ちそうな勢いで飛び起きる。
「ジョン! 目が覚めたのか?」
 眼と眼が合って彼が微笑むと、シャーロックは床に膝をつき、その左手を両手で包み込んだ。
「よかった…。今夜意識が戻らないようなら危ないと、昨夜ドクターに聞いて…でももう大丈夫ってことだな。待ってろ、皆に知らせて来る。」
 言いながら立ち上げりかけたシャーロックの右手を、ジョンがまだ握りしめている。
「…君だった。」
 シャーロックが、何だ?という顔でそんなジョンを見つめ返した。
「僕をこの世に繋ぎ止めてくれた、暖かい手があった。あんまり苦しくて…命を手放しそうになった時だよ。誰かがずっと、僕の手を握って励まし続けてくれたんだ。あの手はやっぱり、君だったんだな…ありがとう。」
 シャーロックは胸を衝かれた。
「…どうして僕に礼なんて…。そもそも君がこんな目に遭ったのは僕を庇って撃たれたからで…僕のせいなのに…」
 ジョンがゆっくりと首を横に振る。
「違うな、シャーロック。撃ったのはあの犯人だ。それに君を手伝うってことは、こんな日もあるって覚悟も出来てたし。嫌ならとっくに、同居人やめてるよ。」
「…ジョン。」
「いいからドクターに知らせに行けって。ここで待ってるから。」

 シャーロックの携帯でハドソン夫人やレストレード警部に、ジョンが自分の声で無事を知らせた後も、なぜかシャーロックは帰ろうとしない。相変わらずベッド脇のスツールに腰かけたまま、窓の外の深淵を眺めている。
「フラットに戻ってちゃんと眠った方がいいんじゃないか、シャーロック?」
「今夜は君と話したいんだジョン。迷惑か? それとも、痛みが酷いのか…」
「そりゃ痛みは酷いけど…。独りでいるより、君の話を聞いてた方が気が紛れるのは確かだな。」
「それならよかった…。話ってのは、ドクターに覚悟が必要だと言われた時のことだ。君を失った後のことも、考えとかなきゃいけないと思った。だけど結局、頭が真っ白になっただけで…何一つ考えられなかったんだ。今君とこうしてると昨夜のことなのに、ずっと遠くに感じるよ。君が生きていてくれて、よかった。」
「まさに完璧な一夜…かい?」
 奇妙な照れ笑いを浮かべながら、ジョンが言う。
「いいやジョン、それじゃ甘い。完璧どころか…完全無欠な一夜と言うべきだ。」
「…お兄さんは正しい。君は本当に、大袈裟な物言いが好きなんだなシャーロック…」
 窓の外ではようやく空が白み始め、彼らにとっての完全無欠な一夜が明けようとしていた。


【終わり】